軍艦島からの生還者の証言
映画’軍艦島’の封切りに際して26日、
日本帝国強制連行被害者のチョイジャンソプ氏が
インタビューしている。
(連合ニュース) 2017.7.27
振り返ればどう生き残ったかわかりません。
あの苦労はー。
言葉では言いようがありません。
日本の軍艦島(長崎市の端島の通称)に強制連行された朝鮮人を描いた映画’軍艦島’の封切りに際して連合ニュースとインタビューした生還者らは軍艦島という名に一様に身をわなわなと震わせた。
ソウル市鍾路区にある日本帝国強制連行被害者支援財団で会ったチョイジャンソプ氏は記者が最初の質問を切り出す前に”日本人ほど酷い奴らは世にありません”と声を荒げました。
15歳だった1943年に強制連行されたチョイさんは"海に取り囲まれた端島で地獄のような暮らしを3年間、強いられた”といって
"パンティー姿で炭鉱底で働かされたあの時を思い出せば惨めで胸が重苦しい”と恨みつらみの数数を吐き出した。
太平洋戦争の際,日本最大の軍需企業の三菱が軍艦島で炭鉱を運営した。
炭鉱で苦役を強いられた人々のほとんどは強制連行された朝鮮人や中国人であった。
日本政府の文書によると1939年から1945年にかけて
134名が息を引き取ったと記してある。
朝鮮人は海底炭鉱の深い坑道の真っ先で
石炭を掘ったり石炭を掘ったところが
崩れ落ちないようにひび割れや隙間を
埋めたりした。
彼らは一日、12時間の労役を強いられ、
豆かす飯と呼ばれるお握り一塊で食いつないだが、それも坑道の奥まで這い込んだ鼠にかじり食われた。
祖国を恨んだことも一再にとどまらなかったという。
軍艦島は海に取り囲まれ、まるで監獄のようだといって監獄島、または地獄島と呼ばれた。
脱出を試みた人もあったが陸地に到達できず、
溺死したり、
日本側に捕らえられたりしたという。
脱出を果たしたという記録はない。
<映画「軍艦島」メーン予告編>